創業ストーリー

何じゃこりゃ!?

東日本大震災が起きた年、私はサラリーマンを定年退職して宮城県加美町の故郷に戻りました。そして,第2の人生をのんびり暮らそうとしたところまではいいのですが,新しい住まいの敷地内にある竹林が写真のように荒れ放題。竹林内に人が入り込むことすらできません。タケノコが生えてきても採りに行けない。

 

竹林に飲み込まれた杉の木は枯れて倒れ,周囲の畑には竹の地下茎がクモの巣みたいに張り巡らされ,野菜を植えようにも耕すことすらできなかったのです(鍬の刃が立たない)。 

 

「さてさて困ったもんだ。どうしたもんじゃろのう。」と呆然としたのが,いずれ私が創業を決意するきっかけとなったのでした。


 

倒れた杉を撤去

まずは竹の勢いに負けて枯れた木を撤去することにしました。初めてのチェーンソーで,斜めになっている木を切るのは相当危険を伴うものでした。

 

チェーンソーの刃がテンションのかかった木に挟み込まれて動かなくなったり,やっと切り終わったと思った瞬間に大きくバウンドしたり,予想もしない方向に倒れたりして危うく大けがをするところでした。


 

竹をチップにしてみた

次に大量に切り出されることになる竹をどうするかを考えました。そして,チップ化してこれを竹林内に戻したり,農業用に使ってはどうかと考えました。そうすれば竹の養分でいいタケノコが採れたり,土壌改良に役立っておいしい野菜が採れたりするのではないかと思ったのです。

 

そこで善は急げとばかりにネットで粉砕機を買って竹のチップ化に挑戦。しかし,隣のじいちゃんがビックリして駆けつけてくるほどドでかい音がする割にはなかなか仕事がはかどりませんでした。1日やって写真ほどのチップしかできない。

 

竹を力づくで押し込む必要があり,体力的にもきつい。どう考えてもこれは現実的ではないという結論になりました。粉砕機は6万円ほどしましたので,高い授業料となってしまいました。メイドインチャイナには注意しなければならないとも強く思いました。

 

その後調べてみたら,50万ほど出せば日本製で現実的に使えそうな粉砕機があると分かりましたが,予算の都合上とても手が出ませんでした。


 

ひたすら竹を焼く

竹のチップ化がどうもうまくいかないとなれば,後はただ不要な竹を燃やすだけです。雨の降らない日は朝から晩まで燃やし続けました。チップ化とは大違いでどんどんさばけますが,それにしても終わりが見えないくらい竹はあります。真夏の時季も毎日のようにやっていたら,ある日目まいが……

 

「そうか,これが熱中症か」

 

ふらふらした状態となり,吐き気もして,生まれて初めて熱中症なるものを実体験したのでした。

 

それからは熱中症に気を付けながら焼いていたのですが,さすがに毎日のように竹を燃やしていると近所の人の目にもとまります。バンバンと竹のはぜる音(節と節の間に入っている空気が熱せられて膨張し,爆発する音)がしますし,煙も出るのですから。

 

そんなある日,一人のおっちゃんが声を掛けてきました。

 

「なんだべや。もってえねえごだ。そんなヌ竹が余ってんだったら竹炭にでもスたらえがっぺや。」

 

もったいないから竹炭にしたらいいだろうというのです。ちなみにこのおっちゃんの言葉は私の住む地域(宮城県北部)の標準語です。

 

そして,このひと言が後の起業への転換期となったのです。もっとも当時はそんなことになろうとはツユしらず,ただただ竹を燃やし続けるだけでした。


 

初めて竹炭を焼く

枯れた竹の多くを燃やし切った頃,何となく気になっていた「竹炭」のことを思い出し,本やネットでその作り方を調べました。多くは穴を掘って云々というもので,とてもやる気が起きないものでしたが,ある時空き缶で簡単に竹炭が作れるという情報に接しました。お菓子などが入っているブリキ缶に竹を入れ,フタに2か所クギで穴を開けて焚火の中に放り込むだけだとのこと。

 

「これならやれる!」と思い,早速実行しました。

すると,思いがけず竹は確かに炭になりました。

 

「意外と簡単じゃん」

そう思ったら,気持ちが前向きになりました。

 

なんせ,焚火というか,竹を燃やす作業は続いていましたから,焚火はいつでも使える状態にあります。そしてその中にブリキ缶を入れるだけの簡単製炭ですから大した手間じゃない。それに,ただ単にやっかいものの竹を燃やすだけの作業はつまらないけれど,火を燃やして何かを作り出すということになると多少の張り合いも感じられていいものです。そこで,作っては出来具合を見てまた作るということを繰り返していったのです。2012年の頃のことです。


 

薪ストーブを使ってみる

こんなふうに竹炭を作って楽しんでいるうち,どうも焚火では安定して良い炭ができないと思うようになりました。あれこれと試行錯誤を続けてたどり着いた結論は「加熱が不安定」ということ。焚火の中での製炭だと,ブリキ缶への熱の加わり方が一定しません。ある時は強烈な炎に包まれて高温になり,別の時はよく燃えない竹に埋もれてしまって加熱が十分でなかったりするのです。そうすると,前者はほとんど灰になり後者は大部分が生焼けになったりするわけです。

 

「これは面白くない」「何かいい方法はないか」と悩み始めたあたりからだんだんと竹炭づくりにはまっていくことになりました。

 

そして時は冬。東北の冬は厳しくて,野良仕事は春までお休みになるのですが,竹の始末については冬でもできます。晴れた日などは十分燃やせるのです。竹は多くの油分を持っているので,いったん火が点いてしまえば多少雪が着いていたってへっちゃらです。

 

ただ,手足が冷たくなるのは相当辛い。そこで安い(8千円くらい)薪ストーブを買ってきて,作業場の近くに据えて暖を取ることにしました。そしてその時ひらめいたのです。

 

「この中にブリキ缶を入れたらいいんじゃないか?」

そうして試したところ,結構いい感じの炭になりました(というか,それまでのものがひど過ぎた)。

 

薪ストーブの中に入れたブリキ缶がまんべんなく加熱されたのが良かったと思われました。それに加熱時間は簡単に調節できます(薪の投入をやめればいい)。フタに開けた穴から出る煙もよく見えます。最初は勢いよく煙が出てきて(水蒸気らしい),それが次第に少なくなって,しまいには見えなくなります。そして,その時が炭の完成した時期だということも分かってきました。

 

分かれば楽しい。しかし,同時にだんだんと欲も湧いてきます。

 

「もっときれいな炭にするにはどうしたらいいか」

そんなことも考え始めるようになったのです。

 

ちなみに写真は2015年当時のもので,お菓子が入っていたブリキ缶から丸型の金属缶(ホームセンターで購入)へと格上げ(?)となっています。


 

それでも竹林はまだジャングル

竹炭の焼き方(の初歩)を覚えた頃の竹林の状況です。枯れた竹はだいたい燃やしたものの,竹林はジャングル状態のまま。依然として中に立ち入ることすら難しかったのです。

 

これまで何百本もの竹を燃やしましたが,それをフイにするようなことが起きます。

 

そうです。春になると次々とタケノコが生えてくるのです。そして3か月ほどで一人前の竹になってしまう。

 

記録を取ってみると,毎年約千本ものタケノコが生えてきます。これでは毎年千本燃やしてもジャングル状態は変わらないということになります。目まいがしそうになります。

 

それでも,どう考えてもこれはやるしかありません。そこで,新しく生えてきたタケノコのうち,そのまま成育させてよいものを選び(残りは食べたり人にあげたり蹴飛ばして折ったりして),それにテープを貼って新しい竹だと分かるようにしました。竹は5年ほどで成長のピークを迎えるそうですから,5年以降に切る竹ということでもあります。それまではテープの貼っていない竹を切り出す作戦です。

 

なお,テープには生えてきた年を記載します。

 

こんなことをしながら,竹林整備の覚悟を新たにしつつも,竹林を適正に管理していくことは本当に大変なことだと身に染みて思ったのでした。


 

マルシェで竹炭を売る ーやがて起業へー

2015年3月,地元の宮城県加美町で手づくり市(加美マルシェ)が開かれたので,思い切って竹炭を展示し,販売してみました。すると,必ずしも多くはありませんでしたが,そこそこ売れたのです。

 

「竹炭は売れる!」

それを体感したのでした。

 

そして翌月,同じく地元で開かれた「陶芸の里春まつり」にも出展したところ,思いがけず町長さんが立ち寄ってくれて,しばし竹炭談議をすることになりました。

 

町長さんは,私が薪ストーブを使って製炭していることに興味を持ったようで,「町では今度,起業者を支援する仕組みを作るので,それに応募したらどうですか」と勧めてくれました。

 

(起業?)

そんなことを考えたことはなかったのでピンと来なかったのですが,町長さんからお声を掛けていただいたことを無視するのも失礼だと思い,後日町の役場に出向いて職員の方に事の経緯を話し,私の竹炭づくりが新しい支援制度の対象になり得るのかどうか感触を伺ったのです。

 

そうしたら,「採択される可能性がありますので,応募してみてください。」との返事。

 

これには正直,私の方が面食らってしまいました。ヒョウタンから駒じゃないですが,ビール瓶の栓を開けたら中からライオンが飛び出してきたようなものです。ビックリ!

 

どうするか悩みましたが,これまでのいきさつ上,何もしないということも選択しにくいので,駄目元で応募することにしました。

 

「やってみっか!」

 

これは私の口癖ですが,それが心の中でつぶやきました。迷ったら「やってみっか」です。そしてこれが後日,私の屋号「やってみっか奔舎」になったのです。

 

役所あての申請書ですから,いろんなことを整理して,簡潔明瞭に「起業」のことを書かなければいけません。そして,その作業の中で,これから私が竹炭をどう作り,どうやって売り,その活動が地域社会にとってどんな意味があるのかなどを考え,整理しました。本来ならこのような考えがまずあって,それから町に申請するのが筋ですが,成り行き上前後してしまいました。でも,この作業は後々とても役に立ちました。いわば起業理念とか経営計画を固める作業だったからです。

 

何とか案を作り,役場に持っていって指導を受け,修正するといった作業を繰り返してやっと申請書が出来上がり,受理されました。そしてしばらくたって町から呼び出しを受けました。

 

「町長がお会いになります。」とのこと。これまたビックリ!。

要は町長自ら最終審査に臨むということのようです。

 

面接は1時間ほどに及びましたが,町長さん自ら竹や竹炭に関する様々な思いを語るというようなこともあってなごやかに進行し,何とか無事に済みました。そして後日,支援することに決定したという連絡を受けたのです。

 

その連絡を受け,うれしく思ったのはそのとおりなのですが,半分は,「これはえらいことになった」という気持ちでした。町の支援を受けるということになれば,これまでのように遊び半分で竹炭を焼くわけにはいきません。「起業」の名にふさわしいものにしなければならない。責任感というか,プレッシャーというか,何やら重たいものを背負ったような気分になりました。

 

ともあれ,これが「やってみっか奔舎」の「起業」までのストーリーです。